二人の旅17年。その二人とは
①「三蔵法師玄奘」が経典を求めての旅の年月
②「伊能忠敬」が精細な日本地図作成のための旅の年月
二人は距離にすれば地球一周の四万キロ以上を歩いた。共通するキーワードは多いが「経」がその筆頭の一字で多くの「経典」と「経度」の観測。仏教で経は釈迦の教えで譬えれば織物の縦糸スートラ、伊能図では緯度より経度測定が難しく木星の衛星を利用しているが歴史的にはクロノメータの普及を待つことになる。
二人の準備期間もすごい。玄奘は仏教以外にも怪しげな西域の135程の国を通過するため、主な7つの言語も習得しているが、仏典を解釈する上でも必要であったのだろう。伊能忠敬は隠居してからの偉業とよく言われるが、それまでも天文学を高橋門下生として習熟しているし、地上の測量術や測定機器入手・改良も大きい。げに地磁気は約7度西をさすが場所によっても左右される。私費を多く注ぎ込んでいる。
その業績は共に始めは歓迎されていない。玄奘は僧侶の出国は国禁、忠敬の測量も江戸府内はおろか他藩を測量するのは難しく、後に幕府御用となったあとでさえも百万石のあの加賀藩では拒否された地域もあったとか。
秘めた追求心。玄奘は大乗経典の「唯識」に出遇うが、訳したのは西域の国の人々で、このような秘中の秘の経典の翻訳だから言語表現できない解釈も多いと原典を求めてインドに向かう。ただ表向きは中国の衆生の安寧のため。そうには違いはない。
忠敬は天文学的見識から「地球の大きさ」を正確に測りたいということであったのだが、幕府老中の政情不明不安な蝦夷地調査測量に、わざわざ日数を要する陸路を「唯の旅人」の如く歩測(後には鉄製の間尺)しながら北に向かう。教科書に記載されているような表向きの目的でこのような偉業は成しえない。それならば誰かがすでに手っ取り早く評価を求めて小さな成果を得ていたはずで、それはもう知りたいという知識欲の「根性」そのものが成しえたのである。
国禁を犯しての帰国。玄奘は唐の時代になっていた太宗皇帝に帰国の許しを求める。道教に変えていた太宗は仏教的偉業とはいえこれを認めるわけにはいかない。しかし西国の軍事的秘密情報の記述を交換条件に認める。この軍事的機密情報を外したものが西遊記として残っている。玄奘は単に赦してもらっただけでなく経典翻訳を国の事業として行える条件もしたたかに得ている。
忠敬の報告は江戸城にではなく、ひそかに行っている。その状況を知った幕府は測量の重要性から、次からは幕府御用としての測量を命じ、江戸府内の測量禁止も解いている。長崎県の対馬からは朝鮮半島南部の山々も交会法で間接測量を行っている。
・・・続く(長期一旦工事中)・・・
参考図
0 件のコメント:
コメントを投稿