正応寺_夜の集い_2021/04/22「供養」
お寺との縁は供養がきっかけとの人が殆どで、家に新仏が居ないから縁がないとかよく言われるのを聞く。主には先祖や親の供養がきっかけの仏縁。
「親鸞は父母孝養のためとて一辺にても念仏申したることいまだそうらわわず」
まるで反対の考えのようだが、700年前の事情の違いは今のように家族単位には住んでいない時代で貴族でしか記録は残っていない。
家族単位でもなくお墓すら無い時代。親鸞さまは「死んだら加茂の川の魚に食わしてくれ」と言われたのを現在の知識人はそれ故に偉い人と言うが、民衆は殆どがそのような状態で親鸞さまの言葉が特別な時代ではない。この時代の供養が出来たのは特権階級だけだが、親鸞さまの言葉にはもっと深いものがある。
いざ自分の親の死に臨んだ経験となるとショックで記憶に残らぬほどが現実。葬式の段取りや葬儀屋さんとの打ち合わせなど。世間体も考えたりもする。仏にふさわしい葬儀と思うが実はこの自分にふさわしい葬儀ではと。
一段落する49日あたりから家族の中での跡片付けに目が向き、関係がバラバラになったり逆に深まったりもする。遺言の川柳に「財産は取り合い位牌は譲り合い」「美しき愛は金で切り」。本当の気持ちはこれからの生活も含めて考えている。
親鸞さまは「この故は一切の有情はみなもって世々生々の夫母兄妹なり」と。こう言えるのは仏様の目。有情とは心があると言う意で全ての人。歎異抄三条。
人の思いには「私の」が頭に付く。そんなに広い「みなもって」の心は持てないことで、特に家族の死は「してやりたかった」の自責の念もあったりで後悔も多くの場合には残るのが死に別れ。
「追善供養」の意味は追って善をなす。どうしてもあれもこれもしてやればよかったとか、迷っているのではと。親鸞さまは「その自分ですよ」供養は尊うことと。追善供養からは出てこない考え。
死を無と考える人が多い。無関係になったとか。それは無仏。導いていると思えるならホトケ様。迷・亡霊と思っているのはあなたの迷い。
いやな人とは自分の一番嫌な部分を考えさせられてしまう人。考え方によれば教え。でもイヤなものはイヤよと話は弾んだ会であった。
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