正応寺春季彼岸会の一日目にお参りさせて頂いた。コロナで一年前は急遽中止となったので二年ぶりの桜がちょうど満開の中の春季彼岸会。
家は近くても「久しぶりね」と二人に。正応寺「夜の集い」では会っているからひと月ぶりなのであるが、気持ちが萎縮されているのでことさらに懐かしい。恋人どうしというのはこうであろうかな~と。
三密をさけ窓を開けてストーブの法要が始まった。マスクをしたままでの読経は息苦しく酸欠なのか頭がボーっとしてくる。声を張り上げられないからいいかもしれない。
ご法話は臼杵市から陶山法水師。お話はこのコロナ禍での日々の暮らしから始められた。あらゆる行事が中止され何もないのに日々は経つ。暇だからマラソンではないが42.195kmを歩いたが、足には豆で、頭の中はコロナでいろんなものを人々が失うことへの疑問。
詰めれば「本当に自分であることを喜びたい」願いではと。だが「自分であることを喜べないという自意識」とのずれがあり、それが苦しめる。
①人生における問題・②人生そのものの問題とボードに書かれた。健康診断にしてもなんでも一日中問題だらけだが、山ほど抱えながらも喜びたい①人生における問題。
②人生そのものの問題、蔓延しているのは不安と差別。大分県では臼杵市で感染第一号がでて、あらぬデマが過疎の町中を飛び交った。またネットでもチェーンメールで「お湯を飲むとコロナは死ぬから拡散を」とか。
親鸞聖人も比叡山でいくら修行しても②人生そのものの問題は消えなかったので、六角堂にこもって聖徳太子の夢告を受ける。お坊さんではない聖徳太子。なぜ聖徳太子?
「仏智不思議につけしめて(よりどころ)、善悪浄穢もなかりけり」の聖徳太子を父の如くと慕われた親鸞聖人。この世俗の中でこそ仏智は輝く。このコロナの中で大事なことを超えて行く仏智。「そのお念仏の教え」は明日お話しますのでとお話を続く!と絞められた。家に帰ると孫らが春休みでやってきた。小一の妹は「お爺ちゃん、指出して」と色を塗りセロテープで指紋をとり自分の指に張る。そうして爺のタブレット指紋認証に挑む。お兄ちゃんはwifiのパスワードを教えろとゲーム機の通信確立に挑む。
コロナの中でも子供たちは面白い成長をする。これらは専門的には通信の確立でそのプロトコル設定はワシが50年前にあっちこっちで挑んだ仏法の六波羅蜜ならぬ「六つのレイヤー」の問題だった。ひとつづつ階層であるレイヤーを確立してゆくが、人生のプロトコルも仏智によらねば闇は開けぬなと。南無阿弥陀仏
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