お内仏の歴史 (如是我聞)
コロナ禍の中ゆえ、何か良いことはないかと考えると、月忌などで門徒さんの家に伺うが、今年は風邪をひいている人がいない。特別に健康に気づかってマスクなどをしてのことではないかと思う。されど心はコロナの不安でストレスが溜まっているように思う。
京都大学の先生が身内を亡くした人の心のケアについて書かれていた。日本人の知恵は「命日参りがあるから」良いことだと。
ある面ではそれで死を疎かにしている面もあるが、お内仏の前に関係者が集い、仏様との対話も大切なことで、その由来をたずねると
釈尊が80歳で亡くなられ、弟子らが仏舎利を8つに分け、小さな土を盛ったスツーパに埋め、毎年命日の2月15日に「香・花・灯」の三具足を供えお参りを始めた。これがお飾りの原型。やがて、「あの声が聴きたいね」という意見が起こって、釈尊の教えを代りが釈尊の声として経を読むことが始まる。さらにわかりやすいお話が法話となった。
やがて初めの8か所が倍々と増え84000になっていったが、今日の法事も、経に始まり正信偈・おふみ・法話・食事の順で同じ形式をとっている。
最初は遺骨が中心だったが、石の仏足跡を拝むことが始まる。四百年後、ガンダーラ地方にギリシャ文明が交わり仏像が造られるようになる。やがて大乗仏教が起こり釈尊の教えの元である阿弥仏を拝むようになり、本来は姿の無い仏なのであるが人の姿として広まってゆく。
親鸞聖人は90歳で亡くなられ、遺骨は大谷墓地に普通に埋葬された。娘の覚信尼は10年後に遺骨を掘りだして六角堂に安置し、その上にご遺影としての木像を置き、三具足でお参りを始めた。
覚信尼は絵像を掛けての説法も始め、これが浄土真宗の始めとなる。やがて蓮如上人の父の代で、親鸞聖人の教えの元である阿弥陀様の教えへの形となり、今日に連なる。
最初は骨に、次に像。そして人から法、阿弥陀様へと移って行く。釈尊後と親鸞後のことと私たちのことを並べて考えると、宗教心は身近な人の死で骨を象徴として、本能的な「やらずにはおれない」という人情に始まっている。
お墓にお参りに行って手を合わせるだけでなく「もっと語りかけるべき」と思う。そこで念仏が大切で、念仏で導かれるようになる仏縁。その宗教心は自己中心的とも言われるが、身近なものゆえなればこそで、他の人には起こってこない「私の」大切な人。
個人的なだけではない教え。自分の狭さを知り、おおやけ性を知ってゆき、そうして自分を生きてゆく。手を合わせずにはおれない始まり。
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