正応寺秋季彼岸会にお参りさせていただいた。今年のコロナ禍・長雨・酷暑の影響でお参りはどうであろうかとか考えながら、お寺の前に立つと前の今川の堰が半分壊れて流されていた。
もちろんマスク着用で三密にも配慮しての配置だ。
ご法話は島根県浜田市から河野恵嗣師。
お話は「世界史にも残るコロナ禍でなにもかも変わって、私は今年初めての法要で、正応寺では門徒総代会で決断されての新鮮なことです。」と始められた。
小学生の子供二人は家でYouTubのゲームばかりで、学校に送り出して安心の母や妻は見てはおれません。私に何とかせーやと言う始末で、朝のお勤めと掃除などを一緒にしてきました。つまり子供とともにまっとうなお寺生活が逆におくれましたと。
「真宗=生活」、朝のお勤めが支えとなった。生活とは人生そのもの。どう過ごすかではなく、どう生きるかということが要と。
多くの譬えなどをなされた中の一つに、800年前のローマ帝国のフレードリッヒ皇帝の実験のお話があった。
人間が言語を習わねばどんなふうに育つか「本当の人間語は?」と、50人の産まれたばかりの赤ん坊を集めて十分な環境で育てる。ただ目をみない・笑かけない・話しかけない。すると三歳までに49人が死に、五歳で全員死んだそうだ。
人が人になれない育て方。能力で見て愛情で子供を見ているか。学校・学力の前に与えるものをコロナ禍で考えてみる覚悟がと。
この久々の聞法に、このコロナ禍中でお寺・仏法から離れて「通過だけの人生」。立ち止まって、人生の根元にあるものはと聞法生活の大切さを感じてお寺を後にした。
お彼岸の四日連休に小1の孫娘が一人で三泊の秘境暮らし。やがて迎えの母親に連れられて帰っていったのでヤレヤレ。カカアが「三日が限度やね」と二人で疲れが出てがっくり。
孫が帰って二日目、安堵の日なのだが何やら淋しい秋。ふと孫に埋めさせた大根の畝を見ると小さな芽が出ていた。孫はいないのだが孫と騒いだ思い出がよみがえってきた。一緒のいるときは騒ぎだけだが、いなくなって初めてより鮮明によみがえる。
亡くなった仏様との日々も生前はただ騒いで暮らしていただけだった。心を畑と思えば耕しているだけで決して芽は出てこないが、亡くしてやがて静けさを取り戻したときに芽が出始める心の耕作。嗚呼!このことかと大根の教えに南無阿弥陀仏。